『カター・サリット・サーガラ』(Kathasaritsagara)は、11世紀頃にカシミールの詩人ソーマデーヴァによってサンスクリット語で編纂された古代インドの説話集です。その名前は「物語の川の大海」を意味し、350以上の物語を含む18巻、約21,388詩節から構成される大規模な作品です。
この説話集の起源は、グナーディヤが著したとされる『ブリハットカター』(Brihatkatha)という失われた作品にあるとされています。『ブリハットカター』は、当時ほとんど理解されていないパイシャーチー語で書かれていたため、ソーマデーヴァがサンスクリット語に翻案し、現在の形に再構成したと考えられています。
『カター・サリット・サーガラ』の構造は、物語の中に物語が入れ子状に組み込まれた複雑な構造を持っています。主要な枠物語は、コーサンビーのウダヤナ王とその息子ナラヴァーハナダッタの冒険譚です。特に、ナラヴァーハナダッタが様々な地上や天界の乙女たちと結婚し、最終的にヴィドヤーダラ(空中を飛ぶ精霊)の王となる過程が中心的なテーマとなっています。
この説話集に収録されている物語は、戦争、恋愛、陰謀、英雄譚、機知に富んだ話など、多岐にわたります。登場人物には、賢明な女性、勇敢な男性、王、泥棒、詐欺師、商人、遊女などが含まれ、当時のインド社会の多様な側面を反映しています。
『カター・サリット・サーガラ』の特徴として、『パンチャタントラ』のような明確な教訓や道徳的メッセージを持たない点が挙げられます。むしろ、純粋に娯楽を目的とした物語集であり、その魅力的な世界観と複雑に絡み合う物語構造が読者を魅了します。
この作品の影響力は非常に大きく、世界中の様々な文学作品に影響を与えています。例えば、ほぼ同時代の『アラビアンナイト』や、後のグリム童話集にも類似した物語が見られます。さらに、チョーサーの『カンタベリー物語』やボッカチオの『デカメロン』といった後世の文学作品にも影響を与えたとされています。
『カター・サリット・サーガラ』に収録されている物語の中には、現代でも広く知られているものがあります。例えば、「ヘンゼルとグレーテル」の原型と思われるインド版の「森に捨てられた子供たち」の話や、パトナ(古代のパータリプトラ)の建国伝説などが含まれています。
この説話集の特筆すべき点は、当時のインド社会の物質的側面を描いている点です。多くのインドの古典文学が宗教的な内容に焦点を当てているのに対し、『カター・サリット・サーガラ』は日常生活や世俗的な事柄を豊富に描写しています。
『カター・サリット・サーガラ』は、古代インドの文化や社会を理解する上で貴重な資料であるだけでなく、その豊かな想像力と物語の魅力によって、現代でも多くの読者を魅了し続けています。サルマン・ラシュディの『ハルーンと物語の海』など、現代の作家にも影響を与え続けており、サンスクリット文学の中でも非宗教的作品として最も影響力のある作品の一つとして評価されています。


コメント