幕末の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト、成島柳北(なるしま りゅうほく、1837年 – 1884年)の『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』は、幕末から明治初期にかけての東京・柳橋の花街風俗を描いた漢文随筆集です。この作品は3編から構成されており、初編と二編が現存しています。
作品の概要
『柳橋新誌』の初編は1874年(明治7年)4月に、二編は同年2月に山城屋政吉から刊行されました。初編は1859年(安政6年)の稿に1860年(万延1年)の追補を加えたもので、幕末の柳橋の様子を描いています。一方、二編は1871年に脱稿され、明治初年の柳橋の風俗を記しています。
内容と特徴
初編
初編では、深川に代わって盛んになった柳橋の花街風俗を活写しています。幕末の江戸・柳橋の様子が生き生きと描かれており、当時の社会状況や風俗を知る上で貴重な資料となっています。
二編
二編では、明治維新後の柳橋の様子が描かれています。特筆すべきは、薩長出身の大官らへの辛辣な風刺や嘲笑が含まれていることです。これは、自らを「無用の人」と称した柳北の真骨頂が発揮された部分と言えるでしょう。
文体と構成
『柳橋新誌』は、軽妙洒脱な漢文体で書かれています。また、登場人物の対話を連ねた形式で構成されており、短編小説的な興趣も備えています。この独特の文体と構成により、読者は当時の柳橋の雰囲気を生き生きと感じ取ることができます。
影響と評価
本作品は、寺門静軒の『江戸繁昌記』(1831年)の影響を強く受けています。しかし、『柳橋新誌』は単なる模倣にとどまらず、独自の視点と表現で幕末から維新期にかけての花街風俗の変遷を活写しています。
『柳橋新誌』は、〈繁昌記物〉の系譜を正統に受け継いだ作品として高く評価されています。さらに、この作品を中継点として、服部撫松の『東京新繁昌記』(1874-76年)へとつながり、〈繁昌記物〉は最盛期を迎えることになりました。
現代的意義
『柳橋新誌』は、単なる風俗誌にとどまらず、新文明の成長的な野蛮さと新時代の破壊的伝統主義を嘆く保守主義者の視点を通じて、激動の時代を描いた作品としても評価されています。柳橋という狭い空間を通して、幕末維新の大きな社会変動を鋭く切り取った傑作と言えるでしょう。


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